お坊さん

お坊さん便などの話題。

「数学のこころ」をつかむこと、私を変えたひとこと

高校生の頃、数学の授業で先生がおっしゃったある質問が、今でも印象に残っています。
「みなさん、円周率って何ですか?」
小学校以来の円周率πとは何か説明できるか、とお聞きになったのでした。
ある同級生が言いました。
「円周率とは3.14です。」
先生は何ともおっしゃりません。そしてほかの生徒が誇らしげに、
「円周率は3.141592です。」
やはり先生は何ともおっしゃりませんでした。
当時、数学には自信を持っていた私はこの二人の生徒の発言と、クラス中の沈黙に何か頬の辺りがこそばゆい気持がして、颯爽と手を挙げて答えたのを覚えています。
「円周率とは3でも、3.14でも無く、分数では表せない無理数で、さらには超越数です。」
先生はやっと表情を崩しお笑いになりました。
その表情の変化をゆっくり観察していると、私は利口なふりをして、知らぬ間に先生に捉えられてしまったのだ、と恥ずかしくなりました。
先生は窓際に立ち、グラウンドで行われている体育の授業をちらっと見やりながら、これから口にする言葉をゆっくりと選びながら再び教壇に戻られ、今日まで私の印象に残っているあの言葉をおっしゃられました。
「円の直径と円の周の長さの比、これが円周率です。」
つまり先生がおっしゃったのは、円周率の「定義」であって、私が得意げに発言したのは、その定義によって現れたπ(パイ)の特徴をかいつまんだものだったわけです。
「そして、この定義の背後には、どんな大きさの円でもこの比が一定になる、という思想が眠っているのです。」
ここまでおっしゃられた時、私は数学とは何か、という問いの答えをちらっと垣間見出来たような気持ちがしました。これまで私は、難しいパズルのような問題を解いてゆくのだけが数学だと思っていたからです。そうではなく、先生が私に教えて下さったのは、教科書には一見無機質に書かれている事柄の背景に潜む「思想」、『数学のこころ』を一つひとつ見つけてゆくのが数学だ、ということでした。
クラス中が狐につままれたかのような、そんな表情をしていたと記憶しています。一部には、なぞなぞのように受け取って先生のユーモアかと笑い出す者もおりました。
しかし、今、数学で暮らしを立てて行けている私にとっては、この短いお言葉が私の人生を変えたものだったと振り返ることができるのです。